1964年に設立された極真会館は、30年後の1994年に開祖である大山先生が亡くなられると本格的な分派・分裂が始まるわけですが、(大山先生の存命中から除名・脱退処分などはありました)緑先生の新極真や葦原会館、極真館など様々な会派に分かれながらも『フルコンタクト空手』という一つのジャンルを国内外に深く浸透させていくのでした。近年では、K-1グランプリを初めとする格闘大会に多くのフルコンタクト選手が輩出されていますし、一般的に空手と聞くとフルコンタクトの姿をイメージされるのはこの為でしょう。
では、この間、伝統派空手道はどんな時代を迎えていたのでしょうか。
そもそも、伝統派空手道の発祥は沖縄とされており、もともと沖縄に在った『手(てぃ)』に中国拳法が合わさり『唐手』となったものと言われています。
明治38年、糸州安恒(いとすあんこう)先生によって唐手が学校体育で取り入れられ、大正に入る頃になると松濤館流の開祖である船越儀珍(ふなごしぎちん)先生や日本伝流兵法本部拳法の開祖、本部朝基(もとぶちょうき)先生が本土で唐手の演武を行うようになり、唐手の名前が知られるようになってきました。その後、慶應義塾大学唐手研究会(初代会長、船越儀珍)が『空』の字を使うようになり、『唐手』表記が広がっていったとされています。
そもそも唐手の元とされる 『手』 とは、何か特定の武術を指すものではなく、闘技に関する『とある一つの手法・方法』という意味を持ちます。このことから、唐手が本土に伝わってくるずっと以前から、いくつもの『手』が存在したことが想像できます。そんな発祥特性を持った唐手ですから、現在多くの流派や会派が混在するのも不思議ではありません。
1964年10月1日、「日本の空手道に統一的な秩序をもたらす」ことを目的として伝統派空手の四大流派(剛柔流、糸東流、松濤館流、和道流)、旧・全日本空手道連盟である錬武会、諸派の連合である連合会などによって全日本空手道連盟(以後JKFと記載)が設立されました。(極真会館が設立された同年というところが面白いなと…)1967年、大濱信泉に代わって笹川良一氏がJKF会長に就任。その数年後に内閣府から認可が下りて財団法人化。72年に日体協加盟、81年には国体正式種目となりました。
メディアを駆使しながら会員数を確実に増やしていったフルコンタクト系空手とは相反するように、伝統派は地味な地盤固めをしてきた印象があります。フルコンタクトと伝統派では、普及活動に於いても『手』が違っていたという事でしょうか。
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