「強さ」を渇望した30年間の原点
思えば14歳の頃に始めた空手道は、44歳になった今日まで、ほぼブランクなく継続してきました。それは、空手道が好きであったから。というのは言わずもがなですが、理想の自分に近づくため、今の自分のままでは悔しいから、あきらめられずに、そういう想いで、もがき続けてきた30年間だったという気がします。
そもそも私は、子どもの頃から「戦い」が大好きでした。テレビを見てもマンガを読んでも、私の心を躍らせたのは、いつだって、高い壁に挑む強い者たちが主人公でした。未就学児の頃は宇宙刑事ギャバンやシャイダーに憧れていました。小学生の頃はドラゴンボールの天下一武道会に胸を焦がし、中学生の頃はマイク・ベルナルドやスタン・ザ・マン、ブランコ・シカティックといったK-1選手たち、そして、グラップラー刃牙に憧れました。高校・大学の頃には空手道にどっぷりとハマり、社会人となった後も「強くなりたい」という根本的な欲求は、私の真ん中で決して変わることはありませんでした。新卒新入社員としての最初の2年間を除き、私の人生はほぼすべての時間を空手道と共に歩んできたのです
転機が訪れたのは、30歳になった頃でした。道場の先輩である心から尊敬、感謝する三森甲宇先輩に誘われ、マスターズの練習会に参加した時のことです。そこで出会った高桑選手は、私より30以上も年を取っていたのに、私は彼を恐れ、自由に技が出せませんでした。私にとって、それはあまりにも衝撃的な出会いとも言えるものでした。
度重なる試練を越えて辿り着いた「最高潮」
しかし、30歳~40歳までの10年間は、試練の連続でもありました。私は右膝の前十字靭帯を二度にわたって断裂したのです。再建手術を二度受け、約4年間という歳月を棒に振る苦境に立たされました。それでも私は、諦めきれず、前を向き、稽古に励み、執念で競技者として空手を続けてきました。
40歳で結婚し、一度は幸せ太りをしましたが、2026年に入ってからは減量と筋トレを重ね、かつてのフィジカルを取り戻しつつありました。その甲斐あって、30歳から始めたマスターズへの道において、直近の半年間は、最も体が動く最高の実感がありました。44歳の私は、30歳の頃の私よりも遥かに強かったと、自信をもって言えます。さらに、ある方からいただいた一言だけのアドバイスをきっかけに、決定的な身体操作を手に入れることができました。その結果、2026年の東京都選手権では、自身でも高く評価できる完璧な内容で、決勝戦へと難なく駒を進めることができたのです。自分のイメージしている技がすべて相手に通用するような、何を出しても成功するような、誰とやっても負けないような全能感が、その時の私にはありました。間違いなく、これまでの空手人生の中で最高潮の技術とフィジカルを手にした瞬間でした。そんな輝かしい2026年の5月でしたから、私はこのままの勢いで関東マスターズも、他のあらゆる大会でも、これまでの苦労を取り返すごとく常勝していけると確信に満ちていたのでした。
悪夢の暗転と、祈りの中で下した決断
しかしその矢先、関東大会のわずか2週間前のことです。練習中に悪夢が私を襲いました。左膝の前十字靭帯を断裂してしまったのです。地元の大学病院で無理を言ってすぐにMRIを撮影してもらい、断裂を確認しました。これまで二度の再建手術をお願いしてきた東大病院に連絡を取り、担当の先生の診察予約をねじ込んでもらいました。そして手術の日程を決めるに至りました。
前十字や後十字靭帯を断裂すると、切って間もない頃は激しい腫れに襲われ、関節の可動域も失われます。また、少しでも角度が悪かったり、一歩踏み込むような力を加えたりすれば、膝は簡単に脱臼(膝崩れ)してしまうのです。怪我からの2週間、私はできる限りの回復に努め、通常の生活はほぼ問題なく送れるようにはなりました。しかし、それが空手道の試合に出られる状態かと言われれば、およそそのようなレベルからは程遠いものでした。軽いジョギング程度なら可能ですが、おそらく9分/㎞程度のスピードであっても、走れば膝が抜けてしまうような不安定な状態でした。私は祈りとともに、さまざまなことに思いを巡らせ、考え、創意工夫を重ねました。そして最終的に、関東マスターズに出場することを決めました。大会当日はプロのトレーナーに会場へ来ていただき、サポートして頂きました。心から感謝しています。ありがとうございました。
思い出の武道館。弱さの中に現わされる真の力
関東大会、奇しくも会場となった埼玉県立武道館は、かれこれ10年ほど前、私の愛弟子、阪田君が全中選抜に出場し、共に戦った思い出の場所でした。まさかこのような形で再びこの会場に立つことになるとは、夢にも思いませんでした。しかし、やはり現実は残酷で、コートに立った私は、ほぼ何一つすることができず、自分の本来の実力のわずか1%も発揮することができなかったのです。後悔がないかと言われれば嘘になります。ここまで積み重ねてきた莫大な時間も、お金も、労力も、直前のウォーミングアップさえも、何一つとして活かされなかったからです。それでも、なんとか、私は前を向いて相手と対峙し、礼を持ってその試合を終わらせました。今できる限りのベストを尽くし、できることはすべてやり切りました。
私はこれまで、道場の子どもたちには常に「強い自分の姿」ばかりを見せてきました。だからこそ、最後にこのような無残で情けない姿を晒すことには、身が切られるような恥じらいがあります。しかし、強くなることを追い求めた私の30年間は、残念ながら、これまででもっとも弱い自分を露呈する形で締めくくられることになりました。関東大会当日、私は怪我を抱え、何も誇ることができない最弱の存在だったからです。自分の力を一切信頼できず、ただ神様の御心のままになるようにと祈る中で、何もできずに敗戦する未来ははっきりと分かっていました。それでも、私は道場の子どもたちにその試合を見てもらいました。今まで一度も子どもたちに見せてこなかったからこそ、この不格好に負ける姿を通じて、勝利の中だけでは決して教えられなかった大切な何かを伝えられるのではないか、と考えたからです。あの泥臭く、情けない姿から、彼らが何かを感じてくれれば、怪我をした甲斐(かい)があります。
「私の恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(Ⅱコリント12:9)
聖書の言葉の通り、自らの弱さを完全に受け入れた先にこそ、本当の強さ、真に強固な心の在り方があるのだと、いま強く思っています。
「おまえは剣や槍や投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえが挑んだイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によっておまえに立ち向かう。」
(Ⅰサムエル記17:45a)
競技者の引退、そして新たな学びと誇りへの着地
さて、子供の頃からただ強くなること、強くなることだけを夢見て歩んできた私ではありますが、今回の左膝の負傷をきっかけに、一時的ではありますが競技者として一線を退くことに決めました。道衣を着て軽い打ち込みができるようになるまでに1年はかかりますし、再び試合に出られるようになるには、術後2年程度の歳月が必要だからです。リハビリと空手道の稽古はこれからも続けますが、試合に出られないこの2年間を、ただいたずらに過ごすつもりはありません。自らをさらに深く磨き上げるための、大切なひとときにしたいと願っています。実は数年前から、東京基督教大学に科目等履修生として学ぶ生活を少しずつ続けてまいりました。もし神様の御心にかなっていれば、正学生として大学に編入するという希望を抱いています。しかし、その道が開けてくるのにも少しの時間が必要になるでしょう。ですから当分の間は、科目等履修生としての授業数を増やし、学びをさらに深めていきたいと思っています。
幸いなことに、現在の道場は初級クラス・中級クラスともに、信頼できる先生方がしっかりと立てられております。そのため、今後私が担当するクラスは、主に上級クラスの稽古、一般部の稽古、そして水曜日の合同稽古と、これまでの約半分程度に抑えることになります。これにより、これからの数年間は、私の大学での学びの時間、あるいは幼子三人と愛する妻を支えるための役割に、しっかりと時間を充ててゆきたいと考えています。ただし、与えられている空手道教室の運営について、私は最後まで責任を持って全うします。今いる生徒たち、また新たに入ってくる子どもたち、そしてここを卒業していった生徒たち一人ひとりが「自分は杉並空手道クラブで稽古しているのだ。していたのだ」ということを自信に繋げてゆけるように。
この怪我という試練すらも、私を人としてさらに成熟させ、次なる役割へと用いるための大切な導きであると信じます。これからも前を向き、与えられた使命の道を一歩ずつ歩んでまいります。どうか引き続き、皆さまの温かいご支援とご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。
我、主とともに在り。主とともに歩まん。
2026年7月13日
杉並空手道クラブ聖基館
代表 池谷正基
感謝感謝、大感謝
・横瀬先生
・北原あかりトレーナー
・聖基館のみんな
・愛する妻
・東京都選手団の皆様
・三森甲宇先輩
・国際武道大学の関係者の皆様






