以下、2014年3月11日に3年前を振り返って綴ったブログです。
東日本大震災から丸10年を迎える今日、誤字などを直した修正版(ほぼ原文ママ)を14時46分に再投稿します。
震災から間もない現地の写真が多数含まれますので観覧は各人のご判断でお願い致します。
それがあった。という事は忘れていません。
でも、何を感じたのか。どんな風に思ったのか。つまり、右脳的感覚が薄れていくのが分かります。
あれからもうすぐ3年です。
3年前の3月15日。宮城県亘理町の災害センターに連絡をとりました。釜石や名取には電話が通じなかったのを覚えています。
車とガソリンの確保、情報収集、物資集め(現地では、タバコが一番喜ばれた…)はとても難航しましたが、多くの方のサポートもあって必要なものは全て揃いました。
ともに現地へ向かったのは有志三名。
一人はカメラマンのタマゴ。
一人は看護師のタマゴ。
一人は消防隊員のタマゴ。
それぞれ今は鶏に成長しています。
私たちが被災地に訪れる数日前に自衛隊が道を切り開いてくれていました。おかげで車の移動がラクでした。一番ありがたいと感じたのは、彼らが用意してくれたテント風呂。これがあったから1週間作業に従事できたのだと思います。滞在期間のほとんどを過ごした荒浜地区ですが、海から10メートルほどの所から住宅地になっていました。被害は甚大。ただ海だけが静かに潮風を運んできているような。
家に突き刺さる大木…。
道端には無数の転がる電柱。
もはや原型が残っていない自動車の数々。
建物2階がすっかり飲み込まれたであろう水跡。
絶句する光景が広がる世界でした
そんな状態でも現地の方々は何故だか明るく、笑顔も交えて会話をさせてもらったのが印象に残っています。
でも、なんだか辛くなってしまったのは、民家で瓦礫の処理をしている時、住人のおばちゃまが半ば強引に一万円を私の手に潜り込ませた時の一言です。
『ありうがとう、ごめんね、ありがとう』
そう言ってました。
ありがとうはともかく、ごめんと言われるのが苦しいような、意味がわからないような…。
これはさすがに受け取れないと、しわくちゃの手のひらに一万円を戻しました。
そのあと、今度はどこからかオニギリを持って来てくれたので、班のメンバー全員で頂きました。
食糧まで頂いてこちらの方が申し訳ない感じなのですが、そのオニギリがとても美味しくて。美味しくて。
滞在何日目かの夜、
『今、この土地の朝陽にこそ意味がある…』
なぜかそんなふうに思いました。本当にそれは、何の根拠もなく、ただそう感じたわけです。車中泊で疲れて切っている仲間を起こして荒浜地区の海へ向かいました。
文明が崩れて、流されて、今この土地にはいったいどんな朝陽があるのだろうか…。
好奇心のような、本能のような、そんな気持ちで車を走らせたわけです。
でも本当は、私の中で一つの仮説といいますか、きっとそうなんじゃないかと思っていたことがあったのです。
『きっと、綺麗なんだ』
それまでと変わらず。むしろ一層、美しくなっているのかもしれないと。
現実の瓦礫と、その向こう側に浮かぶような、包むような、夢のような空でした。
これだけの災害をもたらした自然がやっぱり美しく見えるのは皮肉だな。と…。
一つ違和感を覚えたのは、その美しい景色の中に何の命も感じられなかったということでした。
シンとした、命の静けさを感じたのでした。
2014年、桜の開花予報をチェックする今日この頃。あの街の瓦礫はすっかり無くなっていることかと思います。
でも、復興を果たしたと言える日はまだ遠いのだろうし、あの時と景色は変われど、やっぱり陽は昇るわけで。
東京は2週末連続で記録的大雪。一面真っ白な世界になりましたが果たして今、あの土地の朝陽はどんな感じなのでしょうか。変わらず美しいのでしょうか。
その美しい朝陽の中に少しでも、あの時より少しでも、命を感じられるようになっていますように。
そんな風に願うのです。
いつかあの街の空手キッズ達と交流ができますように。
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