稽古雑感05/26 たかが空手指導者。

 今日の中級稽古は、久しぶりに本気で叱ってみた。子どもをしかる時、いつも心のどこかで自分に問うことがある。

 

『果たして自分は子どもに科しているほどできているだろうか』

『今しかることは適切なタイミングであろうか』

『感情的になっていないか』

 

問うというより、どこかから注意を受けているような、自分も一緒に叱られているような、そんな気がする。

自分の指導力や資質を問われているようで、これがなかなかしんどい。

そういうわけで、人さまの子どもをしかりつけるというのは自分にとっても少なからず負担になる。よちよち優しくやっているほうが幾倍もラクである。また、『しかる』は気をつけないと感情的な『怒る』にエスカレートする。それも時にして必要な気もするが基本的に大人は子どもに対して感情的になってはいけないと思う。『しかる』と『怒る』は紙一重であるが、そういう点では大きな違いがあると思われる。(ちなみについ先日、武道館でドアが閉まる寸前のエレベータに鬼ごっこで駆け込んで来た見知らぬ子ども三人に激怒した。それは、あの子達の命に関わることだからである。)

 

 今、私のもとに来てくれている子ども生徒の中で20年30年空手を続けてくれる人がどれだけいるだろうか。きっと9割以上に空手を辞める時がくる。それぞれが自分の道を進んでいってくれるならそれは嬉しいことであるし、確かに寂しいが、それで構わない。それで良い。では、あの子たちがいつか空手から離れていった後、刻み突きなり逆突きなり、平安五段なり、空手の技術がいったい何の役に立つというのだろうか。防犯護身の役には立つかもしれないが、それはこの平和日本であまり必要がない。でも私は、生徒でいる間だけでなく、微力ながらその後の彼らの人生の役に立ちたいと思う。だから、空手を続けている間だけ通用する技術なんてものは二の次である。本当にほんのわずかでも良い。彼らの人生の糧となるような稽古を心掛けたい。

 

本当はずっと一緒に居たいと切にせつに願うところではあるが、いつか辞めることを前提にというか、いつか巣立っていくことを念頭にしている。なんとも切ない。

 

今日、久しぶりに本気で叱ってみたことも、その判断に絶対の自信はない。

ただ、いつか巣立っていくであろうあの子達に伝えておきたい大事なことの一つであったのは確かである。

10年後、もしくは20年後、あの子たちが親になった時、自分の子どもに空手を勧めてくれるなら、それは最高の幸せだと思う。

 

たかが空手指導者。されど空手指導者である。

責任は決して軽くない。

 

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